教育者も美しくあれ!

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レッジョ・チルドレンの歴史として、ローリスマラグッチ国際センターにて、映像がループして紹介されている場所がある。

その中の1枚を紹介したい。

 

子どもが描いたものなのか、それとも、大人が描いたものなのか、それも分からないのだが、その描かれたものを、2人の子どもと、大人(おそらく、アトリエリスタ)で、何やら話をしている。

 

何を隠そう、この風景は、保育の現場なのだから、日本とは全く異なると個人的には思う。

 

何が違うのかと考えると、大人1人に対して、子どもが2人であること。

日本では、こんなに個別で対応ができなのが現状である。イタリアだと、子どもを見る人数が異なるのか(子どもに対して、大人の人数の配置)?と思ってしまいがちだが、そうではない。むしろ、同じくらいなのです。

違いといえば、敷地面積が、イタリアの方が、相当大きく決められている。それは羨ましい話だと、思った。

日本と、ほとんど、変わらないのに、どうして、こんなに落ち着いて対応ができるのか?と、関係者なら思うかもしれない。

このカラクリは、アトリエリスタがいるときには(毎日居るわけではなく、しかも3ヶ月くらいで交代することもある)、数人が、順番で、アトリエリスタと活動を共にする。

 

この活動とは、あらかじめ、テーマを決めており(プロジェクトと呼ばれている)、その内容に沿って行われる。

少人数で行うことによって、より語り合うことができ(対話)、落ち着いて活動に集中することができる。

 

そのワンシーンが、こちらというワケです。

 

もう、ひとつ思うのは、教師が普段着であるということです。

これは、当たり前のようで、当たり前ではないと、日本では思います。保育着と呼ばれるものは、エプロンをしたり、ジャージであったり、パンツスタイルでなければならなかったりしますが、それでは、保護者はそんな格好をしているのか?と言ったら、そうではありません。

普段着のままで、そして、ご自身が好きな格好で教育をすることが、ご自身らしくいられるのではないかと、個人的には思います。

 

そして、この教師は、美しい!

美人だから美しいと言っているのではないのです。彼女らしさが出ており、そして、何より、真剣さが美しいと感じることができるのです。

その姿は、子どもにも、伝わるはずです。真剣さ、情熱は、何よりも大切な要素であり、それが美しく見えるのは、自然なことではないかと思うのです。

 

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”より豊かで完全な知識の構築者であり、暴力や抑圧に対する防御手段としての詩的言語。”

イタリア語google翻訳

”より豊かな知識を豊かにし、暴力や抑圧を防衛するための構築者としての詩的言語。”

英語google翻訳

 

ヴィア・ヴェッキという、アトリエリスタの方が、この言葉を言われており、直訳でも何となく分かるかもしれませんが、個人的には、詩的言語や、知識を豊かにすることで、暴力や、抑圧に対して、対抗できる手段となる。

私も同感です。

もしかしたら、このヴィア・ヴェッキさんが、写真の方かもしれません。

知っている方がいましたら、教えてください。

 

 

※ヴィア・ヴェッキさんを調べていたら、こちらの論文がヒットしたので紹介します。

「京都大学」<論文>レッジョ・エミリアの幼児学校における美的経験 と学び

 

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